マイレア邸の概要
フィンランド西海岸の街ポリの郊外、ノールマルックの小高い丘の上に、背の高い木立に囲まれてマイレア邸は建っている。
マイレア邸はアルテック社の出資者でアアルトのパトロンともいえる、グリクセン夫妻のための住居である。
同時にマイレア邸はサヴォア邸やファンズワース邸に並ぶ、近代建築の中でも有数の名建築と謳われている。
(サヴォア邸に関する記事はこちら)
マイレア邸はフィンランドのノルマルクという小さな田舎町にある。
アルヴァ・アアルトという建築家
アルヴァ・アアルトは、本名フーゴ・ヘンリク・アールトといい、フィンランドが生んだ20世紀を代表する世界的な建築家、都市計画家、デザイナーである。その活動は建築から家具、ガラス食器などの日用品のデザイン、絵画までと多岐に渡る。その活動の広さは素晴らしく、羨ましいものである。
アアルトは、1898年にフィンランド内陸部の村クォルタネで生まれる。測量技師であった父親の影響を受け、少年時代から建築家を志していたそうだ。
1916年にアアルトはヘルシンキ工科大学の建築学科に入学。1920年にはグンナール・アスプルンドに弟子入りを志願した。当時は断られたそうだが、後に強い親交を結ぶこととなる。アスプルンドはアアルトにとって、言わずもがな多大な影響を与えることになる。ちなみにアスプルンドのストックホルム市立図書館は円形プランのとても美しい建築であり、是非このサイトでも取り上げたいと考えている。
アアルトには数多くの代表作があるが、『ヴィープリの図書館』は特に特徴的である。この作品に見られる波形曲線の木製天井は、フィンランドの伝統的材料である木材を用いることで、当時流行の兆しを見せていたモダニズムとは一線を画した、アールト独自のモダニズムのあり方を押し進めるきっかけとなり、曲線と木材の使用はアールトの作風の一つとなった。(ちなみに「アールト」はフィンランド語で「波」を意味するらしい。)これをさらに押し進めたのがパリ国際博覧会フィンランド館(1937年)、ニューヨーク国際博覧会フィンランド館(1939年)のうねる壁面や、マイレア邸での木材の使用であり、これらのデザインはさながら、近代建築の自由の曲面を予感させるものであり、当時では考えられないほどハイセンスなものであった。
マイレア邸のかたちを考える
外観を見ると、複雑そうだ。初見では、ファサードの構成を理解するのに時間がかかる。
プランを見ると、そこまで複雑な平面計画ではない。もう一度、平面図と写真を照らし合わせながら見ていくと、全体の構成が見えてくる。
大きな構成はL型の白いボリュームがあり、南西に木を基調とした薄いL型のボリュームがつき、西面にダークトーンの背の高いボリュームが飛び出ている。この3つが大きなボリューム構成である。さらに離れへのアプローチがあり、エントランス前のキャノピーが付く。北側にはプールを備えた広い庭がある。
細かく見ると、三角形の出窓が付いたり、白いボリュームにはリブ模様が付いたり、キャノピーには無数のルーバーが付いたりと実に多様により構成されている。
この時代、ファンズワース邸をはじめとする先進的な住宅は、「抽象的な箱」としての建築を目指し、引き算の考え方に基づいていることに対し、マイレア邸は足し算で設計を進めているように見られる。足算で設計をまとめあげることは難しい。要素が増えることで、デザインの収集がつかなくなることが多いからだ。
それでいて全体が調和していると評される理由の一つとして、アアルトは自然との調和を第一に考え、素材を選んでいるからだと思われる。自然素材を多く使うため、当然風景と馴染む上に、例えばキャノピーのルーバーは周辺に立ち並ぶ木立を直喩的に表現している。事実、アアルトはフィンランドのモダニズムの父と呼ばれ、その着想の多くはフィンランドの風景から、色や形のヒントを得ていたという。
同じ表現はインテリアまで続いている。有名なシーンとして、居間とエントランスと食堂をゆるやかに分節する木製のルーバーがある。階段もこの丸棒で覆われ、まるで木立の中を上がっていくような演出である。
また、アアルトはアジアの影響を受け、設計に反映させている。柱に巻かれた籐をはじめ、家具、建築ともに竹・籐などのアジア的な素材が用いられている。扉は引き戸が多く活用されている。そして、空間を明確に分節せずに、ゆるやかにつないでいる。いずれも日本の伝統建築の持つ特徴であり。アアルトが参照したと思われる部分は多い。
それにしても、マイレア邸、線が多くスケッチしづらい。しかしそれだけに空間の予想がつかず、行ってみたいと思わせる住宅である。
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